Stevie Wonder / スティーヴィー・ワンダー

Stevie Wonder / スティーヴィー・ワンダー
Biography

スティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder, 本名:Stevland Hardaway Judkins, 1950年5月13日 – )はアメリカのミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。歌のほか、様々な楽器を演奏するマルチ・インストゥルメンタリストであり、11歳の時にモータウンのTamlaレーベルと契約し、以来現在までモータウンひと筋に活動する。30曲以上のU.S.トップ10ヒットを放ち、計22部門でグラミー賞を受賞、最も受賞回数の多い男性ソロ・シンガーである。
ステージでは主にピアノやフェンダー・ローズ、クラビネットなどのキーボードをプレイしながら歌うことが多いが、他にもやドラム、ハーモニカ、シンセベースなどもプレイするマルチプレイヤーとして有名。
彼の非凡な音楽センスは、物心つく前から目が見えない代わりに神が与えたと称される。様々なジャンルを違和感無く自身の音楽に消化してしまうことから、異ジャンルのミュージシャンから尊敬の眼差しを受けている。また、視覚障害や音楽的素養などの共通点があることから、しばしばレイ・チャールズと比較される。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第9位。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第15位。

 ・ Spotify : Stevie Wonder / スティーヴィー・ワンダー

Stevie Wonder / スティーヴィー・ワンダーの生い立ちと活躍

ミシガン州サギノー生まれ。保育器内での過量酸素(未熟児網膜症)が原因で生まれてすぐに目が見えなくなる。

11歳の時、モータウン社長の前で歌と演奏を披露し契約、2年後にデビュー・アルバム「フィンガーティップス」を発表(当初は「リトル・スティーヴィー・ワンダー」名義)。全米No.1となり一躍有名になる。わずか12歳でデビューしたため、ビートルズのメンバーとは年齢が離れているにもかかわらず、ほぼ同等のキャリアを誇る(後年、スティーヴィーはポール・マッカートニーと「エボニー・アンド・アイボリー」で共演)。

1970年に、モータウンから自作のプロデュース権を獲得し、音楽出版会社「タウラス・プロダクション」を設立。自身の新たな音楽を模索していたある時、ロバート・マーゴレフとマルコム・セシルの2人のエンジニアによるユニット「トントズ・エクスパンディング・ヘッド・バンド」のアルバム『ゼロ・タイム』に使われていた、当時開発されたばかりのモーグ・シンセサイザーに感銘を受ける。以後、スティーヴィーはシンセサイザーを駆使し、殆どの楽器を自分で演奏してアルバムを作るスタイルを確立してゆく。

1973年、従兄弟の運転する車に同乗した際に交通事故に遭う。この事故の後遺症で一時味覚と嗅覚を失うが、その後のリハビリが功を奏し、ほぼ完全に回復。この体験により慈善活動や平和活動に目覚め、後の1980年代には南アフリカのアパルトヘイト政策に反対する歌、公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師を讃える歌を発表する。日本の全盲の中学生との交流がきっかけで仙台市立加茂中学校を訪問し、歌ったこともある。

1974年の第16回グラミー賞で、自身初の受賞を果たす(シングル「迷信」が最優秀男性R&Bボーカル賞と最優秀R&B楽曲賞、「サンシャイン」が最優秀男性ポップ・ボーカル賞、アルバム『インナーヴィジョンズ』が最優秀アルバム賞をそれぞれ受賞)。翌1975年2月のグラミー賞授賞式では、最優秀アルバム賞受賞後のスピーチで、この賞を前年に亡くなったデューク・エリントンに捧げると発言した。

1976年には、2枚組のオリジナル・アルバム『キー・オブ・ライフ (Songs in the Key of Life) 』をリリース。このアルバムは、当時全米アルバムチャート14週1位となる大ヒットになり、この年のグラミー賞の最優秀アルバム賞も受賞した。

1984年の映画「ウーマン・イン・レッド(The Woman in Red)」のサウンドトラックに用いられた「心の愛(I Just Called to Say I Love You)」は、米英で大ヒットするとともにアカデミー歌曲賞、ゴールデングローブ賞を受賞した。

1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分でリードボーカルをとった。
2009年12月、国連平和大使に任命。